【老子】『道德經』

  老子道徳経

老子道徳経[ろうしどうとくきょう]』は、中国の春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』とも表記される。また、老子五千言・五千言ともいう。
老子道徳経』は5千数百字(伝本によって若干の違いがある)からなる。全体は上篇(道経)下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。上篇(道経)は「道可道 非常道 (道の道とすべきは常の道に非ず)」、下篇(徳経)は「上徳不徳 是以有徳 (上徳は徳とせず、是を以て徳有り)」で始まる。書名は上下篇の最初の文句のうちからもっとも重要な字をとったものである。

出土資料としては、郭店一号楚墓(かくてんいちごうそぼ;中国湖北省荊門市にある陵墓)から出土した残簡(ざんかん;一部またはかなりの部分が失われて不完全な形で残っている文書)が最古である。それに次ぐものとして馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ;湖南省長沙にあるB.C.2世紀の墳墓)から出土した2種類の帛書(はくしょ;文字の書いてある絹布)すなわち『老子帛書』甲・乙がある。(甲本は劉邦の「邦」を避諱しておらず、漢以前のものである。乙本の方は破損が少ない。また馬王堆帛書では徳経が道経より前に来ている。)

老子道徳経』には、固有名詞は一つも使われていないことが指摘されている。短文でなっていること、固有名詞がないことから、道家俚諺(りげん;ことわざ)を集めたものではないかという説がある。

 

老子にも固有名詞が登場することも、稀にあります。
「江」というのが出てきますが、これは「長江:揚子江」を指すのが原義でした。一方、荘子には夥しく固有名詞が出てくるのが好対照です。

iireiさま (2017/07/25 コメントより)

 

 

  老子

老子[ろうし]は、古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物。 「老子」の呼び名は"偉大な人物"を意味する尊称と考えられている。
書物『老子(またの名を老子道徳経)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。
道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。

中国の言い伝えによると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。
歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする説、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという説など多様にある。

老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家である司馬遷(B.C.145年 - B.C.86年)が紀元前100年頃に著した史記』卷六十三"老子韓非列伝"中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。

史記』 卷六十三 老子韓非列傳 第三

老子者,楚苦縣厲鄉曲仁裏人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也。
孔子適周,將問禮於老子老子曰:“子所言者,其人與骨皆已朽矣,獨其言在耳。且君子得其時則駕,不得其時則蓬累而行。吾聞之,良賈深藏若虛,君子盛德容貌若愚。去子之驕氣與多欲,態色與淫志,是皆無益於子之身。吾所以告子,若是而已。”孔子去,謂弟子曰:“鳥,吾知其能飛;魚,吾知其能游;獸,吾知其能走。走者可以為罔,游者可以為綸,飛者可以為矰。至於龍,吾不能知其乘風雲而上天。吾今日見老子,其猶龍邪!”
老子修道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:“子將隱矣,彊為我著書。”於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。
或曰:老萊子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時云。
老子百有六十餘歲,或言二百餘歲,以其修道而養壽也。
孔子死之後百二十九年,而史記周太史儋見秦獻公曰:“始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。”或曰儋即老子,或曰非也,世莫知其然否。老子,隱君子也。
老子之子名宗,宗為魏將,封於段干。宗子注,注子宮,宮玄孫假,假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅,因家于齊焉。
世之學老子者則絀儒學,儒學亦絀老子。“道不同不相為謀”,豈謂是邪?李耳無為自化,清靜自正。

 

史記』 卷六十三 老子韓非列傳 第三 (訳)

老子は楚の苦県[こけん;現.河南省)の厲郷[らいきょう]、曲仁里[きょくじんり]の人である。名は耳[ジ]、字[あざな]は耼[タン]、姓は李氏といい、周王室の書庫の記録官であった。
孔子が周に行った時、老子に礼について質問すると老子は「あなたのいう古の聖賢などは人も骨も朽ち果ててしまい、ただ空言が残っただけだ。また君子というものは時流に乗れば馬車を乗り回す身分になれるが、時宜が得られなければヨモギの種が風に吹き飛ばされるように転々とするだけだ。私は"良い商人は品物を隠して込んで店を空っぽに見せかけているが、君子は盛徳を持っていてもその容貌は愚者に見える"と聞いている。あなたの驕慢と欲深さ、もっともらしい態度とみだりに燃える志向を取り去ったほうが良い。それらはあなたに何の利益ももたらさない。私があなたに告げたいのは、それだけだ。」と答えた。
孔子はその場を去って弟子たちに言った。「鳥がよく飛び、魚がよく泳ぎ、獣がよく走ることは私も知っている。走るものは網を張って捕まえることができ、泳ぐものは釣り糸を垂らして釣ることができ、飛ぶものは矢で捕えることができる。だが龍になると、風雲に乗じて天に昇っていく姿を知ることはできない。私は今日、老子に会ったが、彼は龍のような人物だった。」
老子は道徳を修めたが、その学問は自らの才能を隠して名声を求めようとしないものである。長く周にいたが周が衰えたのを見て、遂に周を去って関(函谷関)に至った。関令の尹喜[いんき]が言った。「先生は今正に隠遁しようとしていますが、何とか私のために著作を書いてください。」と。そこで老子は上下二篇の書物を書いて、道徳の意味について五千余字の文章を残して去っていった。老子がどのような生涯を送って終えたのかは誰も知らない。
ある人が、「老莱子[ろうらいし]は楚国の人である。著書が十五篇あって道家の効用について述べ、孔子と同時代を生きた人だった」と言った。老子は160歳以上まで生きたと言われ、あるいは200歳以上まで生きたとされる。道を修めることで寿命を長く養ったからだろう。
孔子の死後129年経ってからの史官の記録に、「周の太史[たいし]・儋[タン]が秦の献公に謁見して、"初め秦は周と合一しましたが合一してから500年で離れ、それから70年後に覇王になる者が秦に出現します"と言った」と書かれている。ある人が言う。「儋こそが老子だ」と。またある人は「違う」というが、世間ではそのどちらが真実かを誰も知らない。老子は隠れた君子である。
老子の子は名前を宗[そう]といった。宗は魏の将軍となり、段干[だんかん;魏の邑]に封じられた。宗の子は注[チュウ]、注の子は宮[キュウ]、宮の玄孫は仮[カ]である。仮は漢の孝文帝[こうぶんてい]に仕えた。仮の子の解[カイ]は、膠西王[こうせいおう]コウの太傅[たいふ;養育者の補佐官]となり、それから斉に住むようになった。
世の中で老子を学ぶ人は孔子儒学を退け、儒学を学ぶ者もまた老子を退ける。「道が同じでなければお互いに話し合いができない」とは、このような状態を言うのであろうか。李耳(老子)は、人為的に作為的なことをせずに、清浄な心理の境地で人々を正した。

 

cf. 周の関所 ―函谷関と散関―

  

 

(2017/07/25 執筆記事 転記)